いつまでもやけに暖かくて年末を迎える気がしない。年末年始の忙しなさは、ただ日を重ねて実感するものではなく、冷え込んだ外気や白い息、室内に入ったときのもわんとした暖房の匂いなど、冬に付随する空気の中で生まれているのだと感じる。
私が文章を書くときには、必ず孤独や寂しさや苛立ちや歪んだ自己顕示のような、マイナスな気持ちが奥底に潜んでいることが多い。そこから沸々と湧き出す行き場のない気泡を拾い上げて言葉になおしていくと、心の表面が滑らかになっていく。一種セラピーのようなものかもしれない。
うまく伝わらなくて、悲しくて悔しくて立てなくなってしまう夜。理不尽な怒りに呑まれて、涙が止まらない夜。必死で頑張っているつもりになっても、自分を誰かが見てくれていると考えることすら、傲慢だと思う。トンネルの中を行き場のない水の流れに任せて漂うような、そんな長い夜に、木造の薄い壁から隣人が野菜を刻む音がして、こんなに近いのに、名前も知らないその人が、同じ夜を生きている。
冒頭の文を書いたのが12月初めだと思うのだが、12月中旬になって、年末に慌てて追いつくみたいに寒くなった。冬はつらい、やっていけないという文字列はたくさんみるけど、実際SNSでは友だちがイルミネーションや忘年会を楽しむ姿ばかり流れてくるし、電車内でマフラーをしている人たちもどこか浮き足立っていて楽しそうに見えてしまう。取り残されたような気持ちで、寒さがまた体に響く。私はできることなら冬、本当に一歩も外に出たくないと芯から思っている。
母から、昔の知り合いのこと、◯◯が最近どうしてるとか、こういう仕事に就いたとか、久しぶりに会わないかとか連絡が来る。そういうとき、私はあまり関心がなくて、ついそっけなく返してしまう。私は今関わっている人に誠実でいたいし、そういう人たちと、ちゃんと温度のある会話をしていたい。冷たいことかもしれないが、大抵の人にとってそうなんじゃないだろうか。
でも、こちらがどんなに過去のことと割り切ってしまっても、母にとって私はずっと◯◯と手を繋いでいた小さい私のまま地続きになっているんだろうな、と思う。「私忙しいしもう長く会ってないし、今更会うつもりないよ」と放つ自分の言葉が、やけに冷たく響いてどきっとした。慌てて「もうちょっと余裕ができたら会いたいかな」と付け足してはみたが、たぶんその時は来ないような気がしている。
バイト先であまりに疲れていて、ちょっと嫌なことを言ってしまった、と、思う。すぐ我に返って、うわー性格悪、と思った。最低限当たり前にできていた、思えていたこと、優しくなれていた部分が、ただ疲れているというだけで私から剥がれ落ちたのがショックだった。私の中の、嫌な奴の部分が明確に顔を覗かせたのが。こいつ最低だな、と思われてるだろうな、と考えながら、思ってくれていいのに、しばらく経ってから「疲れてるんでしょ、大丈夫?ちょっと座ってればいいよ」と言われて、意表をつかれて少し泣いてしまった。人が嫌なことを口走り仏頂面をしているとき、「疲れているんだ」と判断できる想像力や気遣いの力に圧倒された。
情けなくて、次の日は1日寝ていた。
やさしい人が多い。疲れているというくらいで剥がれてしまう私の、メッキのやさしさではなくて、ちゃんと本物の。
久しぶりに以前のコミュニティに顔を出したら思いのほか楽しくて、たくさん話してしまった。その勢いで空回りとかもして、それを笑ってくれる人がいて、自分がもういないはずの場所をうっかり愛してしまいそうで、急に怖くなった。
みんなの顔を見ていたら、きっとひとりひとりが関わり合いの中で不安になったり、嫌な思いをしたり、させたりしたこともあると思うけど、器用な人も不器用な人も、それぞれが目の前の人とただ純粋に向き合っている感じがして、そのまま大きな集団まるごと愛しているのが奇跡のようで、美しいと思った。相手にとっては世間話の範囲を出ないかもしれないけど、自分の近況を気にかけてくれる人もそれなりにいて、誰かが話を聞いてくれたり共感を得られたりするってとてもありがたいことだなとも思った。
ただ、人と他愛ない話をして楽しい気持ちになって、明日からも自分はそこにいないままなのに、楽しかった気持ちが自分の中だけで宙ぶらりんになるのが怖い。場所にも人にも依存せずに生きていこうと決めていて、そうなるだけの強さを手に入れたと思っているのに、自分の中に強い依存の体質がいまだ息づいているのに気づくとき、すごく怖い。
みんなも1人になって、そういう気持ちに苛まれたりするのだろうか。
なんとか軸を戻して、明日からまた二本足で立ってやっていこう。みんなと別れて寒い帰り道、コンビニで高いチョコを買って、これが私が私を幸せにしてあげられる手段だと錯覚させて歩いた。人が話を聞いてくれることで得られる充足感には敵わないと、心の隅ではわかっている。